カンボジアの未来を創るD君 2017年02月

この1月、カンボジアの首都プノンペンに出かけました。

旅の目的は2つです。

1つは以前、僕が働いていたリクルートのOBやOGたちが様々な分野で活躍しているが、その中でいわゆるASEAN諸国(ベトナム・カンボジア・ミヤンマー・タイ・マレーシア・シンガポール・フィリピン)で起業家として、あるいは政府機関で、またはボランティアとして活躍しているOB/OGの集いに参加すること。

もう1つは、やはりリクルート時代に共に働いたメンバーのひとりであるD君(仮名)に10年振りに再会することです。

成田空港から直行便で飛ぶこと凡そ6時間半、プノンペンに降り立った僕を出迎えたのは気温32度の真夏の風でした。

出迎えのクルマに乗ってホテルまで向かう車窓から見るプノンペンの町はアジア特有の喧騒に覆われていました。

大渋滞の道路を進んでいくと、車と車の間には荷物を運ぶ牛車、そしてオートバイを改造したツクツクと呼ばれる輪タクシー、またその合間を縫って人が横断する光景はアジアのエネルギーを彷彿させるものがあります。

クルマが脇道に入ると、その姿はより顕著になり、露店が立ち並び、椅子ひとつの露店床屋があり、バイクを修理する道端の修理屋さん、かと思うと何やらカード遊びに興じるランニングシャツに短パン、サンダルのおじさんたち、黄色い僧衣をまとったお坊さん、そのわきを遊びまわる子供たち。

車窓越しとは言え、喧騒のエネルギーがビンビン伝わってくる。

あの悲惨な犠牲を生んだポルポト政権が倒されて以来、外国資本と人材を積極的に受け入れているカンボジアの成長と変化は凄まじいものがあるそうです。

短い滞在だが出来る限りのものを吸収して帰国したいと改めて思った到着の日です。

アジアで働くリクルートのOB,OGの集いは、王宮に近い閑静なフランスレストランで催されました。

元フランス人のお屋敷の後をレストランに改装した素敵な建物で、オーナーも日本人だそうだ。

定刻の19時にはほぼ全員が出席。

出席者の三分の一くらいのメンバーは互いに面識があるもの、僕を含めて三分の二のメンバーは初対面という構成でしたが、共にリクルートという同じ会社に身を置いた仲間であることから、あっという間に打ち解け、話が弾む集いになったのは嬉しいことでした。

この席には本来、プノンペン在住のD君も参加する予定だったのが、彼が急にアンコールワットのあるシュリムアップに出張が入り、欠席となったのが残念でした。

しかし、事前にD君とのメールのやり取りで、明日、僕がD君を訪ねて彼が働いている幼稚園を訪れることにしたので、今宵の集いは大いに語り合い、飲み、食べることにした僕でした。

ここで出会ったOB&OGの仕事は様々でした。

シンガポールでネット通販をやっているH君、人材紹介事業をホーチミンで立ち上げたK君、バンコクで広告代理店を経営するW君、ベトナム進出企業の財務コンサルティング企業のホーチミン駐在の参加メンバー紅一点のK嬢、カンボジアでの会計システム支援企業のCOOのH君、名古屋の私大副学長でベトナム人留学生受け入れの責任者のH君、プノンペンでの不動産仲介事業のO君、ミヤンマーでレストランを経営するM君、同じようにプノンペンでレストランを経営し、彼の奥様はパン屋を経営するT君、等々多彩な顔ぶれで話題は尽きず、結局2次会を終えてホテルに帰ったのは午前2時でした。

彼らに共通していたものは、「やりたいことがあればやってみること、失敗を怖がるよりやらないで後悔する人生は送りたくない」という意志でした。

参加メンバーのひとりが「結局、それってリクルート行動指針の‘自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ‘だよね!」

全員の共通するDNAが、それなんだと改めて感じ取った集いでした。

さて、翌朝、僕はホテルの前からツクツクでD君の幼稚園に向かいました。

そこは比較的静かな界隈で、アメリカンスクールの向かい側に目指す幼稚園がありました。

ここでとっても驚き、感動した出来事がありました。

門扉を開け、敷地に足を踏み入れた時です。

園庭で遊んでいた園児たちが一斉に「おはようございます!」と元気よく手を合わせながら出迎えてくれたのです。

3歳、4歳の子供たちです。

運動会で被るような赤い帽子、黄色いTシャツ(なんと袖には日の丸が縫い込んであります)、青い半ズボン、みんなお揃いのユニフォームです。

僕も慌てて手を合わせながら「おはようございます!」

すると子供たちが抱きついてくるではありませんか。

ニコニコ笑いながら、親しげに、それも初対面の僕にです。

一瞬、日本にいる僕のお孫ちゃん達を思い出しました。

そして、僕はそれだけで目頭が熱くなったのです。

なぜ、子供たちは日本語ができるの?僕が来ることがわかっていたので予めD君から指示されたのかしら?と変な詮索する僕でした。

間もなく園舎の横から「てらさん、いらっしゃい!」と笑顔のD君が出てきました。

10年振りの再会です。

「なぜ、子供たちは日本語が出来るの?」

挨拶もそこそこに僕は尋ねました。

「授業はすべて日本語でやっているんですよ」

「え!?」と僕。

「まぁ、とにかくお入りください。積もる話が山ほどありますから」

それもそうだ!僕も山ほど聞きたいことがある。

なぜ、何がきっかけでカンボジアに住んでいるのか?

この10年、どんなことをやって来たのか?

これからの目標は?

D君の話しはこうでした。

「リクルートを卒業(り社では退職とは言わず、卒業というのがノーマルな言い方である)

して、通信系のF社で働いていました。ある日役員会議の席で社長が、今後ビジネスオンリーだけではなく世のため人のためにも役立つことを実行していきたい。特にアジアの未来と日本の未来は共に繋がっている。そこで今後皆さんの意見をドシドシ聞かせて欲しい」

ということが出発点になり、公益財団法人を設立し、10年前に僕は日本語学校設立のために来たんです。日本語学校も10年間の歩みで軌道に乗ったところで、予てから子供たちのための学校を作りたいという思いがあり、その思いに共感して頂いた多くの方々の支援を受けて、昨年の春、遂に幼稚園をつくることができたのです。

新たに採用したカンボジア人の先生を半年間、日本の幼稚園に派遣し、研修を受けてきた方々が今、ここで子供たちの教育にあたっているんです。」

なぜ日本語を?の問いにD君は明快に答えてくれました。

「幼稚園も日本語学校も3つのことを重視して教育しています。それは日本語と日本文化、そしてマナーです。特にマナーを教えるには日本語が最適なんです。

例えば、カンボジアのクメール語には“いただきます!”という言葉はありません。

子供たちが毎日、おやつの時間に手を合わせて“いただきます!”と言って食べることで自然自然にマナーが形成されていくのです。先ほど、てらさんが入って来たとき子供たちが“おはようございます!”と挨拶したのも強制した訳でも、予めゲストが来ることもアナウンスはしていません。自然にできるようになったのです。」

子供たちの親は、ポルポト時代の子供たちです。

学生や先生、医者、僧侶、外国語ができる者、都市生活者は殆どが虐殺されたキリングフィールドの時代を身を以て体験しています。

それがトラウマになって子供を学ばせることに抵抗感があるそうです。

昨年の秋、初めて学芸会を開催しました。

親御さんたちの前で、挨拶をし、歌を唄い、ダンスをして、劇もやる子供たちを見ながら親御さんたちは泣いていました。

終わってから親御さんたちから感謝の言葉を聞けました。

僕は人も企業も国も教育がすべての源だと思います。

その仕事ができる今が一番幸せなんです。

日本の若者にここに来て、子供たちと接してみることで何かを感じ取ることができると思います。

「てらさん、僕は幼稚園を創り、幼稚園を通じてカンボジアの未来に役立つ人を創ることが僕自身の成長になると思います。」

D君の熱い言葉に触れたカンボジアでの体験です。

日本の未来は明るい!そう確信したカンボジアへの旅でした。

  

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